2017年3月24日金曜日

『ハミルトン』とブロードウェイ・ミュージカルの二重性

『ハミルトン』は全編がほぼ楽曲でつづられる "sung-through"ミュージカル。同じような試みとしては、このブログでもとりあげた『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『レ・ミゼラブル』があります。どちらもヨーロッパ産のミュージカルです。ミュージカルでは普通、劇の部分と歌の部分があり、なじみのない人にとっては登場人物がとつぜん歌い始めて変だ、という印象をもちやすい。逆に、すっかり歌になっていたほうが入りやすいという意見もあるでしょう。上記のヨーロッパ産ミュージカルが日本でも人気なのはそのあたりに理由がありそう。

一方で、ブロードウェイ・ミュージカルを語るうえでは、台本(book)と歌(number)の関係をどうとらえるかが一つの焦点。『オクラホマ!』(1943)がミュージカルを完成させ、黄金時代の幕を開けたと言われますが、この作品が台本と歌という従来は分離しがちだった要素を一体化させる(integrated)に成功したから、という理由がよくあげられています。それ以前の音楽劇でも台本(物語)はあったけれども、スターの歌を聴かせる、踊りを見せるための言い訳、とりあえずあればいい程度のもの。歌が盛り上がって、それが劇場の外でも楽譜やレコードとして売れればよい、という考え方だった。そこから、アメリカの現実を反映した内実のあるあらすじを取り込む方向へ、『ショウボート』(1927)あたりから展開し始め、最終的には『オクラホマ!』で台本と歌が混然一体となった真のミュージカルが誕生した!というわけです。

ただし、「一体化」「混然一体」とうえで書いた状態が実際にどのようなものかは、まだまだ議論の対象のようです。Scott McMillin, The Musical as Drama (Princeton University Press, 2006)はミュージカル(特にブロードウェイ・ミュージカル)を独自の劇的仕掛けをもったジャンルとして分析した面白い本で、McMillinは「一体化」説に反対の立場をとっています。確かに『ショウボート』から『オクラホマ!』にかけて台本の改良が起こって、それがブロードウェイ・ミュージカルというアメリカ独自の表現につながった。しかし、実際の作品においては、台本と歌が一体にはならず、別々の働きをすることこそがブロードウェイ・ミュージカルの肝だ、というのです。台本があらすじへ先へ先へと進めること(progression)を担い、一方で歌が歌詞やメロディの繰り返し(repetition)で登場人物を別の次元(詩的(lyrical)な次元)へ移行させ、一時あらすじの進行を宙づりにする(suspension)。このギャップを用いて、通常の劇とは違う表現を達成するのがミュージカルだ、と。ミュージカルが苦手だという人の意見を要約すると、劇と歌が混じっていてそのつなぎ目が不自然ということになります。McMillinの見解では、その一種の不自然こそがブロードウェイ・ミュージカルの面白さなのだ、ということですね。そしてこうしたブロードウェイ・ミュージカルは、『ジーザス・クライスト・スーパースター』や他のアンドルー・ロイド・ウェーバーの作品とは、別の構造をもっている、とも述べています。

確かに、台本と歌の一体化を達成化したとされる1940年代~1950年代のミュージカルを見ていると、劇の中でこんなふうだなと解釈していた登場人物が歌においてはとつぜん別のレベルで語り始めるということがある気がします。たとえば、『南太平洋』(1949)の"You’ve Got To Be Carefully Taught"という歌は、作品後半に主人公のひとり、アメリカ軍若手将校ジョゼフ・ケーブルが歌います。それまでの展開でも異人種間の交流と差別というのが描かれているのですが、ここでケーブルは恋仲になった島の女性との結婚を拒んだ自身の差別意識が、アメリカ合衆国において社会的に教え込まれたものである、との認識を述べます。それまでの展開では、南太平洋の異国情緒がステレオタイプ的に描かれ、アメリカ社会についての客観的な思想などはまったく感じられないのですが、ここで急に大きなテーマが差しはさまれる、そのギャップがすごい。また、ギャップが違和感を与えるものの、それが失敗ではなく、歌とテーマのインパクトにつながり、また作品全体の価値に大きく貢献しているのも大事なポイント。ミュージカルの劇と歌のギャップが変だなと思うのはある意味正しいわけですね。最終的には、そこから面白みを味わえるかどうか、ですね。

『ハミルトン』はどうかと言うと、最初に書いたようにいちおう "sung-through"であるものの、歌メインとラップ・メインの曲、一曲のなかでも歌とラップの部分、ラップでも独白と会話の部分、というように、様々なギャップを見て取ることができそうです。ヒップホップを導入することによって、『レ・ミゼラブル』などではちょっと感じられてしまう"sung-through"の単調さを回避できているのではないか? また、実際にはさまざまなギャップが仕組まれていながら、それをあまり意識せずに視聴できるようになっているのでは、と思います。このブログではすでに何度か書いていますが、『ハミルトン』はヨーロッパ産ミュージカルの魅力も取り入れながら、ブロードウェイ・ミュージカルの王道を保っていると思うんですよね。

"22. Dear Theodosia" やジョージ王の3曲などについてよく考えてみると、Millinのいう宙づり(suspension)がうまく機能しているなと感じられます。第一幕はアメリカ独立革命の急激な変化を描いているわけで、まさに "non-stop" な進行(progression)のなかに劇全体がある。そのなかで、登場人物たちは一方向に、不可避的にどんどんと流されていきます。ただし、それだけでは作品に深みがでないし、第二幕の終わりまでオーディエンスの興味を惹きつけることはできない。"22. Dear Theodosia" は美しいメロディとリフレインの反復によって、バーとハミルトンの二人に、アメリカ独立革命とそれ以降の国作りというあらすじの進行とはべつの時間(それは初めての子供とともに過ごす彼らにとってのかけがえない時間でもあります)を生きさせ、オーディエンスに物語の進行とは別の領域での登場人物とのつながりを作り出します。"23. Non-Stop" からは二人はもとの二人、イケイケのハミルトンと慎重派のバーに戻ってしまいますけど、オーディエンスは彼らがそうしたあらすじで割り当てられた役割・アイデンティティとはある意味相容れないような心をもっていること、そしてその心を最後に決闘に至ってしまう二人が共有していた瞬間があること(彼ら自身はそれを知ることはないですが)を忘れないでしょう。そして、歌によってつくられた登場人物たちとの一体性が、第二幕へと深い意味で私たちを誘うことになります。

他にも、台本と歌のギャップからは、ミュージカルにおける興味深い仕組みを理解する鍵を見つけられそうです。『ハミルトン』についてはラップが入ることで、より微妙な操作が可能になっているのではないかなあ。そういえば、"10. Helpless" などでは一曲に時間が凝縮されていて出会いから結婚まで駆け抜けてしまったりしますよね。あれも普通の劇だと実験的になってしまいそうだし、ミュージカルでもあまり見たことがないような・・・。それが自然に思えてしまう、というのは、『ハミルトン』は楽しむのにはとくに何も悩まなくても楽しめてしまうのですけど、分析していくとあらゆる箇所に精妙な仕掛けが見えてきそうな気がします。


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